学会について

慶弔関係

新川 詔夫先生を偲んで

本学会名誉会員、長崎大学名誉教授、および北海道医療大学名誉教授でありました新川詔夫先生は、令和4(西暦2022)年4月4日(月)、享年81で不帰の客となられました。恩師であり尊敬する新川先生を偲び、ご生涯を振り返り、育てていただいた弟子の思いをまとめて哀悼の意を述べさせて頂きます。

新川先生は、昭和17(1942)年5月8日にお生まれになり、昭和36年北海道大学医学部に入学、昭和42(1967)年に卒業され、インターンシップ制度を経て昭和43年(1968)に同大学小児科に入局なさいました。昭和45年(1970)に同大学理学部附属動物染色体研究施設で染色体の研究を開始されております。昭和47年(1972)には、スイスジュネーブ大学産婦人科細胞遺伝学教室に助手として留学されております。この時期の上司が、小児科入局時に指導を受け恩師にあたる梶井 正先生(山口大学名誉教授)と伺っています。その後、昭和51年(1976)に北海道大学小児科助手として帰国され、昭和59年(1984)に長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設遺伝学部門教授に就任されました。以後平成19年(2007)まで長きにわたり、同大学で数多くの研究者を育てられました。その後は北海道医療大学個体差健康科学研究所に移られ、平成22年(2010)から6年間同大学の学長を務められ、平成29年(2017)に退任されております。

新川先生の研究業績は、北大動物染色体研究施設での研究を入り口とした臨床細胞遺伝学の研究、臨床遺伝専門医としての先天奇形症候群の研究業績、長崎に移ってからのDNAを基盤とした分子遺伝学研究と本学会を通じた多大な社会的貢献と、それぞれの時代に沿って分類されるように思われます。留学期を含めた第一期に相当する臨床細胞遺伝学研究期には、DNA多型RFLPも未だ発見されていない時期に、染色体分染法による異形マーカーで親由来を区別観察することにより、今では常識となっていますが、3倍体の起源や胞状奇胎における雄核発生など、大きな発見をなさっています。第二期にあたる臨床遺伝医期の大きな業績として 1981年の Kabuki症候群の発見があります。本論文は、第一期から培われた類いまれな観察眼と学問的な発想が集約された結果だと考えております。第三期に相当する長崎大学で基礎系人類遺伝学教授に就任(昭和59年)されてからの活躍には、さらにめざましいものがあります。それまでに培った自らの細胞遺伝学および臨床遺伝学の知識の蓄積を、DNA・ゲノムの視点から探索する研究に展開し、新規研究分野を開拓されました。長崎では、それまでの細胞遺伝学・臨床遺伝学の知識とDNA解析の融合が結実した Prader-Willi症候群とAngelman 症候群のインプリンティング病に関する研究で礎を築き、在任期間を通じて分子遺伝学手法による様々な遺伝病の解析を進められました。第三期には、Camutrati-Engelmann症候群の原因遺伝子TGFB1の単離、Sotos症候群の原因遺伝子NSD1の単離など、多くの疾患原因遺伝子を同定されております。平成18年(2006)には、文部科学大臣表彰「科学技術賞・研究部門」を受賞し、人類遺伝学・分子遺伝学への多大な貢献によって平成20年(2008)に日本人類遺伝学会賞を受賞されました。

新川先生は、本学会における社会活動や専門医制度の設立と運営において多大な貢献をされております。臨床遺伝学認定医制度(現専門医制度)の創設(1990年)、第一回遺伝医学セミナーの実施(1991年於山梨県石和)など、現在に至る人類遺伝学会の専門資格制度の基礎形成と普及に尽力されています。また、第48回日本人類遺伝学会大会長(2003年於長崎市)、人類遺伝学会理事長(2004年1月〜2007年9月)を務められ、本学会の発展に大きな貢献をされております。

新川先生は人材育成において大きな功績を上げておられます。長崎大学の新川研究室に所属した大学院生や研究生が、日本の人類遺伝学分野で数多く活躍しています。北大時代からの弟子に当たる福嶋義光先生(信州大学名誉教授)、北大から長崎の門を叩いた外木秀文(天使病院臨床遺伝センター長)、斎藤伸治(名古屋市立大学教授)、木住野達也(長崎大学先端ゲノム研究センター准教授)。大学院生として所属した、松本直通(横浜市立大学教授)、副島英伸(佐賀大学教授)、太田 亨(北海道医療大学教授)、原田直樹(京都大学iPS研究所准教授)、三浦清徳(長崎大学教授)、三宅紀子(国立国際医療研究センター部長)、塚元和弘(長崎大学教授)、吉浦孝一郎(長崎大学教授)。その他、渡邊順子(久留米大学教授)、冨田博秋(東北大学教授)、山田崇弘(北海道大学教授)等、枚挙に暇がありません。このように、多くの人材を輩出してきたことは、新川先生の懐の深さや公平公正な姿勢で研究を進めてきた証であろうと思います。新川先生の研究に対する自由な発想、自由な態度に触発されて、多くの弟子が研究と臨床を続けてきた結果なのだと感じます。もう1つ新川先生について思うことは、「ヒト」の遺伝にこだわった研究者であったということです。臨床医としての視点からヒトの遺伝現象をとらえ、研究に活かされていたように思います。新川先生の大きな業績の一つに耳あか型の決定遺伝子ABCC11の発見があります。耳あか型という古くから知られているヒトの遺伝形質を、当時の最新の遺伝学的手法で明らかにされたのも、先生の幅広く豊富な知識、何にでも興味をもつ人柄、自由な発想、ヒトの遺伝への興味があって成し得たものです。

私自身は、新川先生が長崎に教授として就任してこられた1984年に長崎大学に入学しています。当時は、このような偉大な先生が長崎にいるとも知らず、(私の記憶が正しければ)3年生の生理学の授業の時に一回講義を受けただけでした。遺伝の講義は、当時の医学部講義には無く、生理学の教授が学生に紹介する意味も込めて、特別講義を設けてくれたようです。大学院入学の時もふらふらと先生の教室を尋ねて行った際に「さあ、どうぞ。好きに研究してください。」といった雰囲気で迎えてくれました。たまたま、所属した大学院の教室が後で偉大な教室であったのだと、今では振り返ることができます。新川先生は決して厳しいわけではなく、放任でもありませんでした。絶妙に厳しく、絶妙にあまく、世間話のように指導をなさっていました。そのような先生であったからこそ、全国そして世界から(ブラジル、オランダ、イラン、コンゴ、ウクライナ、中国、韓国など)から人が集まり、今でもヒトの遺伝に関する分野で活躍する人材を育てることができたのでしょう。

新川詔夫先生は、細胞遺伝学研究からはじまり、遺伝医学の普及に貢献され、ヒトに関する分子遺伝学分野発展に大きく貢献されました。臨床から基礎研究までを網羅した偉大な研究者であり、臨床家であり続けました。ここに先生の日本の人類遺伝学への貢献およびその社会的な関連活動に対して敬意を表し、日本人類遺伝学会会員、先生のすべての教え子・弟子たちとともに、先生が安らかに眠りにつかれていることを心からお祈り申し上げます。合掌

長崎大学原爆後障害医療研究所人類遺伝学研究分野
教授 吉浦孝一郎

武部 啓先生を偲んで

本学会名誉会員・京都大学名誉教授の武部啓先生は平成30年5月6日(日)、
享年83歳で不帰の客となられました。武部先生は学問的そして社会的に多岐に亘ってご活躍されており、本来なら不肖の弟子である私が追悼の文章を書かせて頂くのは恐れ多いことですが、先生の晩年に一緒に活動をさせて頂きました縁より、先生のご生涯を振り返る機会として、哀悼の意を述べさせて頂きます。
 
武部啓先生は昭和9年8月19日に石川県でお生まれになり、昭和32年に東京大学理学部生物学科植物課程をご卒業になられました。東大を選ばれた理由は中学2年生頃から遺伝学にご興味をもたれたとのことで、当時日本で唯一の遺伝学研究室があった東大しか道がなかったからとお聞き致しました。大学院2年であった昭和34年に米国・ジョンズ・ホプキンス大学研究員として留学され、昭和36年に帰国され、新たに東大にできた放射線生物学研究室(理学部動物学教室内)に10月1日より助手として着任され、昭和38年9月13日に理学博士(東京大学)の学位を取得されました。

その後、大阪大学に新設された医学部放射線基礎医学教室の助手に就任されました(昭和39年8月1日)。阪大では紫外線によって大腸菌からバクテリオファージがでてくる過程を測定した世界で初めての研究を行われ、国際的に評価を受けられました。阪大在籍中の昭和41年から43年まで約2年間、アメリカ合衆国テキサス州の南西高等研究所へ留学されました。アメリカ留学中にある学会で、それまで先生が研究されていた微生物の紫外線の作用が人間にも当てはまることが報告され、それがきわめて重要だと直感され、日本に帰国後、はじめて色素性乾皮症の患者さんの培養細胞を手がけられました。そして、今日AからGまでの7グループが知られているうちの第6番目であるF群を発見されました。

昭和51年12月1日には新設の京都大学放射線生物研究センター教授(放射線システム生物学部門)に就任され、昭和57年に京都大学医学部教授(放射能基礎医学講座) に就任されました。平成10年4月1日に京都大学を定年退官され、名誉教授の称号を受けられました。京大での22年間の勤務の間、多くの研究者、医師を育てられ、学生からは名物教授として慕われておられました。武部先生は学術的な活動のみならず、雑用を断れないご性格と調整力とで、いろいろな長や役員をお引き受けでした。昭和61年から6年間、放射線生物研究センター長を、平成2年から平成5年までは京都大学評議員を務められました。国際的にはHuman Genome Organization (HUGO)の倫理・法・社会委員会の委員を平成8年から14年まで務められました。平成10年に厚生科学審議会先端医療技術評価部会の出生前診断に関する専門委員会の委員となられ、無制限の検査に待ったをかけた「母体血清マーカー検査に関する見解」の通知発出についても活動されました。

平成10年4月からは、近畿大学原子力研究所教授となられ、理工学部に生命科学科を設立するためにご尽力され、平成14年4月からは生命科学科の初代学科長としてその基を築かれました。平成17年に大学院総合理工学研究科で遺伝カウンセラー養成課程を設置する際にご尽力頂き、平成25年の3月まで当該課程にて9年間教鞭をとられていました。なぜ、畑違いの遺伝カウンセラー養成課程にご尽力されたかといいますと、阪大時代に、色素性乾皮症の患者さんのご家族との出会いがあり、古山順一先生が兵庫医大に移られた後に、阪大で遺伝相談を引き受け苦労したことなど、またHUGOの倫理委員会での経験があったものと思われます。先生は、現在遺伝医療現場で働いている多くの認定遺伝カウンセラーを育ててこられました。
以上のような先生の研究・教育への顕著なご業績により、平成26年には瑞宝中綬章を授章されました。ここに先生の人類遺伝学への貢献およびその社会的な関連活動に対して敬意を表し、先生のご冥福を先生のすべての教え子とともに心からお祈り申し上げます。合掌

近畿大学理工学部生命科学科/大学院総合理工学研究科遺伝カウンセラー養成課程
准教授 巽 純子
(2018年 記)

 

梶井 正先生を偲んで

本学会名誉会員・山口大学名誉教授の梶井正先生は平成28年2月1日、85歳を一期として不帰の客となられました。恩師として尊敬した先生の生涯を偲び回顧の念繁きものがあり、ここに弟子を代表して哀悼の言葉を述べさせていただきます。

梶井正先生は昭和4年7月31日、梶井貞吉、貞子様ご夫妻の三男四女の次男として東京都でお生まれになりました。梶井家は代々加賀の御典医の家系だそうです。

お父様は陸軍軍医中将軍医総監であり、叔父様の梶井剛様は日本電信電話公社(現NTT)の初代総裁でありました。先生の少年時代は東京で過ごされ、矢来小学校・杉並第八小学校、次いで開成中学校(現開成高校)に入学され2年修了時に、ご父君の勤務の関係と大戦中の学業疎開によって札幌第一中学校(現札幌南高校)へ編入し4年時修了(飛び級)時に北海道帝国大学予科医類に入学、昭和28年に北海道大学医学部を卒業されました。その後、大学院に進まれ小児科学を専攻し、臨床医としてご研鑽を積まれました。

昭和31年には, 北海道大学小児科助手、34年から一時は札幌市内の小児愛育協会付属病院の第二代院長を勤められ、36年北海道大学医学部付属病院講師、41年から1年半、訪問研究員としてニューヨーク州立大学シラキュース校に留学し、先天異常学・細胞遺伝学を学ばれました。帰国後母校の講師として教育・研究に当たられました(私が弟子入りしたのはこの頃です)。

昭和44年に北大を辞し、7年間スイスジュネーブ大学産婦人科病院の胎生学・細胞遺伝学研究室教授(WHO地域センター主任)、次いで再びニューヨーク州立大学小児科准教授を歴任した後、昭和53年から山口大学医学部小児科学講座教授となられ、多くの後進の指導に当たられ平成5年に定年退官されました。退官後はSRL社の顧問として我が国の染色体異常と希少性遺伝病の合併例を多数発掘され、ご自身自体の研究そして国内外の共同研究を通して原因遺伝子の発見に多大な寄与をされたのは周知の通りです。
梶井先生の研究業績は膨大です。大別しますと、サリドマイド胎芽症の発生調査と原因究明、自然流産胎児の染色体異常調査、経口避妊薬の染色体異常への影響調査、胞状奇胎の発症機構の解明、ヒト3倍体の発症機構、絨毛上皮腫の研究のほか、Neu-Laxova症候群やPremature chromatid separation (PCS)症候群の確立と原因解明など枚挙にいとまがありません。これらの業績により「高松宮記念がん研究費」や「昭和60年度日本人類遺伝学会賞」を受賞されました。

社会活動でも多大な功績を残され、46年サリドマイド裁判における原告(患者)側証言、47年経口避妊薬の胎児に及ぼす影響に関する国際ワークショップの主催(於ジュネーブ)、48年世界宗教会議シンポジスト(於チューリッヒ)、62年ヒューマンフロンティアサイエンスプログラム委員会委員、本学会に関係したものでは、第36回日本人類遺伝学会大会長(於宇部市)、臨床遺伝学認定医制度(現専門医制度)の創設(初代の制度委員会委員長)、遺伝医学セミナーの立案・開設、奇形懇話会(現Dysmorphologyの夕べ)の開設などです。「染色体異常をみつけたら(臨床細胞遺伝学認定士制度のHPに掲載http://cytogen.jp/index/index.html)」はアクセス数20万件を超す、専門家中ではベストセラー(販売はしていませんが)です。
梶井先生は多くの弟子や遺伝医学・小児科の専門家を育てました。愛育病院時代の奥田欽一(小児科医)、北大時代の新川詔夫(長崎大学名誉教授)、ジュネーブ大学時代の大濱紘三(広島大学名誉教授)と高原宏(産婦人科医)、山口大学時代の小林邦彦(北大名誉教授)、塚原正人(元山口大学教授、ご逝去)、今泉清(元神奈川こども医療センター、ご逝去)、荻原啓二(小児科医)、大橋博文(埼玉こども病院)、松浦伸也(広島大学教授)の諸先生ほか多数の山口大同門会の方々などです。それぞれ梶井先生の遺志を継いで各方面で活躍しています。
このように梶井正先生のご生涯は細胞遺伝学・遺伝医学の発展とその普及に捧げられました。日本人類遺伝学会会員、臨床遺伝専門医、弟子たち、そして多くの知人に大きな影響を与えてくれた梶井正先生の懿徳に感謝して、衷心よりご冥福をお祈りいたします。合掌

追記

梶井先生の種々のエピソードを追悼文中で披露するのは憚り割愛したのですが、先生のお人柄を偲ぶにはそれなくては語れませんので、ここに追記したいと思います。先生もお許しになると思っています。
梶井先生は口語日本語がとっても下手なことは誰もが認めるところですが、一旦文体における表現では同一人物かと思うように達人となります。とりわけ英文論文の構成の仕方・簡潔さ・的確さは米国人も脱帽です。しかし先生の中学校時代は英語は敵性言語でしたからその後の語学習得に苦労されたそうです。北大時代は敗戦直後で進駐軍が走り回っていましたので、GI達との接触で英語を訓練したと言っておられました。研究室でもときどきブツブツ言ってクマのように歩き回ります。隣の部屋にも聞こえてきます。耳を澄ますと英語のphraseを反復練習しているのでした。人知れず自己鍛錬している姿をかいま見ました。但しドイツ語は不得手のように思われました。ドイツ語圏のホテルに泊まったとフロントでは一泊funfundsiebzigと言いましたが、先生は「57マルクは安い!」と感心した様子でしたが、75の誤りです。私は直していただいた英文論文の表現法を反復し憶えて身につけようと努力しました。未だ師の域には達しませんが梶井イズムの一端は継承し、先生から習ったことを要約した「英文論文の書き方」のプリントを作成し後進の院生たちに伝えてきました。例えば論文では関係代名詞を使うくらいなら2文にせよ!とか、副詞節や副詞句はできるだけ避けよ!とか、on the other handは日本語の「一方・・」、ではなくて、前の文章の意味をひっくり返すときにのみ用いるとか、「Figures/Tables→Meterials&Methods→Results→Discussion→Introduction→Summary→Authorship→Acknowledgements の順で書くこと」、
「タイトルは読者を引きつけるものにする。最初に最も重要なキーワードを使う。A Study of …やA case of …はダメ」など多くの参考になるものがありました。
先生は世事が苦手でした。世間話のときは、先生はただ黙っています。嫌なんだと思います。相づちも打ちません。梶井家での食事会の後雑談でご家族や客は小一時間ばかり盛り上がっていましたが、気がつくと先生がいません。客の帰宅時間になるとて別れの挨拶のためどこともなく現れます。あとでわかったのですが、世間話を聞いているのが苦痛で、奥の寝室で寝転びながら論文を読んでいたのです。嫌いなことへの梶井式回避術の一つはこんな風でした。世間話でもご本人が興味のあるときは、やはり黙ってですが首振り動作が始まります。この動作は逃避せずストレスを回避する身体反応のようです。学術的話題のときは決して首は振りませんし、集中しています。先生のおっしゃることをこちらが聞き漏らして聞き直すと大変なことになります。しばらく沈黙し、そして深いため息となります。説明は繰り返すのではなく、その話題の完全初歩から始まります。例えば細胞遺伝学の話題ならば「ヒト2倍体は46本の染色体があります」から始めます。理解できないのは根本からわかっていないのだと思われているのです。これは辛い!!先生のお弟子さんたちは「そんこともあったなあ」と頷いていることでしょう。研究時間の合間に雑談したときや、論文指導の折の過去の業績の記憶力は驚嘆すべきものでした。「何とか言う雑誌の何号の何ページあたりにそのことが書いてある」といったもので、調べるとその通りでした。論文の図表は細部にこだわります。ハサミによる染色体写真の切り離しには染色体の端から1ミリです。それも写真の水平面から染色体内側へ斜めに切り込まなくてはなりません。Q分染写真は絶対そうしなくてはなりません。その上で黒マジックで切り離した写真の裏から端を塗りつぶします。黒い台紙に張ったときにエッジがみえないようにするためです。私はこの作業の熟達者です。なぜなら弟子入りした一ヶ月間こればかりしていましたから。
先生は早朝型です。朝2時か3時には起きて風呂につかりながら論文読んでいるようです。学会のためバーゼル郊外の小さなホテルに先生と同部屋で泊まった経験でも真夜中にお風呂で読書をしていました。私は一睡もできませんでした。札幌市の拙宅にお泊めしたときも2時頃に起床されて入浴しリビングのヒーターを入れた形跡があったのですが、我が家では節約のため就寝前にセントラルヒーティングの大元スイッチを切っていましたので、先生は真冬の北海道で冷水シャワーをかぶりその後も部屋で寒かっただろうと、この場であの世に向かって陳謝する次第です。先生はお酒をたしなみますが、赤ワインが大好物です。ポルトガル産の安価なワインを好まれていました。酔うと前額中央部がV字状に発赤します。これは潜在性の血管腫で(明瞭なものはsalmon patchと呼ばれるものです)遺伝性ではないと思います。先生の運動神経は人並みでしょう。水泳は古式泳法ですが見事でした。但し運転技法だけはいただけません。これはスバル360に乗っていた若いときからも、空冷式フォルクスワーゲンでもそうです。強いて言えば、パーキンソン病的ドライブ手技です。カーブはガキガキと回りますし、停車は急です。車の中で相手をののしりながらです。
先生は米国から帰国されるとき、勤務候補地として複数の学術機関がありましたが、山口大学医学部を選び、定年まで医学部のある宇部市にお住まいでした。この選択はどうも偶然ではなく、先生の心の中に山口宇部に対する親和性が存在したのではなかったのかと思います。ご母堂が山口県宇部市出身の男爵家のお嬢さんで山口高等女学校のご出身だったからです。どこかにゆかりの地だという意識があられたものと考えます。一方、先生のご子息さまお二人は北大を出られてNTTに勤務されました。これも先生の叔父(梶井剛)様が日本電信電話公社(現NTT)の初代総裁であったことが就職理由のどこかにあったのではないでしょうか。不思議な「えにしの糸」です。ちなみに、梶井家の男性はすべて一文字の名前です。例外は父上ですが、三人の叔父(剛、滋、篤)、兄(直)、ご本人(正)、弟(明)、長男(健)、次男(浩)です。祖父の時代からあるいは先祖からの伝統だと思われます。
先生は大変人ですが、曲がったことができない正直を絵に描いたような人でした。先生はヨーロッパではサムライ・プロフェッサーと呼ばれていました。白人から見ても一本筋の通った古武士のような科学者と思われていました。厳しい人でしたが人前で怒ることはありませんでした。でもときにおっしゃるお小言の一言一言はずっしりと重く心に響きました。弟子たちはみな先生を慈父のように尊敬しています。いま先生に旅立たれて茫然自失です。生前の先生のお姿を偲びつつ謹んでご冥福をお祈りいたします。

北海道医療大学 学長
新川 詔夫
(2016年 記)

 

金澤 一郎先生を偲んで

2016年1月20日、日本人類遺伝学会名誉会員としてご活躍された金澤一郎東京大学名誉教授、国立精神医療研究センター名誉総長が、享年74歳でご逝去されました。金澤先生のこれまでの多大な学問的ご功績と日本人類遺伝学会への御尽力御貢献に対して心より深謝申し上げるとともに、先生の御冥福をお祈りします。
金澤先生は東京都のご出身であり、日比谷高等学校を経て、昭和42年東京大学医学部医学科を卒業後、東京大学神経内科に入局、東京大学神経内科助手、英国ケンブリッジ大学薬理学研究員、筑波大学神経内科講師、助教授、教授をへて、平成3年東京大学神経内科教授になられました。東大病院長なども兼任されました。平成14年同大学を退官後、国立精神・神経センター神経研究所所長、同センター総長、国際医療福祉大学大学院長などになられました。
平成14年から10年間、宮内庁長官官房 皇室医務主管を務められ、皇后陛下の発声障害や天皇陛下の前立腺がん摘出手術、心臓バイパス手術の2度の手術にも関わられ、皇太子妃雅子さまの体調や秋篠宮妃紀子さまの出産にも対応されました。日本学術会議の会長も務められ、北海道洞爺湖で開催されたG8サミットで関係5か国のアカデミー座長を務められました。
また日本神経学会理事長、日本内科学会理事長等を歴任され、日本人類遺伝学会第49回大会(2004年)の大会長を務められ、第13回国際人類遺伝学会(ICHG2016)の名誉大会長でもありました。その間、瑞宝重光章などを叙勲されています。
研究面では、大脳基底核・小脳疾患の臨床、神経疾患の遺伝子解析、中枢神経系の神経活性物質の探索などの脳科学分野を専門とし、特に神経伝達物質サブスタンスPの解析とハンチントン病における低下、日本におけるハンチントン病の遺伝子解析の中心的な役割をはたしました。

金澤先生は、あれだけの立場におられながら、とても気さくでフェアな先生でありました。いつも我々の話に耳を傾けていただきました。
先生は1991年私が東大神経内科の卒後7年目のかけだしの医局員の時にこられ、そのときからご指導いただきました。私など、先生が東大に来られたばかりの時、福山型筋ジスのホモ接合性マッピングによる遺伝子同定のプロジェクトのお話を聞いていただきたく、アポなしで夕方の医局会の後、教授室に突撃しました。大変お忙しそうにしておられ「後じゃいかんか」「うーん、わかったよ、君が今すぐ聞いて欲しそうな顔をしてる」とおっしゃり、私の話を聞いてくださいました。また癌研生化学部へ国内留学するときに、中村祐輔先生にご挨拶にご一緒に行っていただいたことも、とても印象に残っています。礼をつくす、とはどういうことか、を示してくださいました。爾来部下の異動のときにはなるべく自分もそうするよう心がけています。
失敗談としては、金澤先生が赴任されたとき東大神経内科生化学研究室の歓迎会を、私が幹事になって赤坂の英国調の有名なインド料理店で開きました。タンドールチキンなど、ほとんどの料理を召し上がりになりません。金澤先生は、あんこがお好きでチキンが苦手、ということをその時以来知りました。

先生ほど、患者のため、医学のため、双方のバランスが取れていたかたをなかなか存じません。まさに巨星墜つ、というのが実感です。大変フェアで、偉大な臨床医、神経学者が、また日本からいなくなってしまいました。まだまだ我々後進を指導していただきたいことがいっぱいありましたのに残念です。

金澤先生、先生は今、全ての重荷を下され天国で憩っておられると思います。残されたご家族やお弟子さん方の平安を心よりお祈りしています。御冥福を御祈り致します。合掌

神戸大学大学院医学研究科 神経内科学/分子脳科学 教授
戸田 達史
(2016年 記)

 

中堀先生を偲んで

日本人類遺伝学会評議員中堀 豊先生は、4月27日(月)、逝去されました。享年53歳でした。

先生は、昭和55年3月東京大学医学部医学科を卒業され、同大学医学部附属病院小児科に入局されました。その後、元人類遺伝学会理事長、中込弥男先生のもとに学ばれ、国立遺伝学研究所助手、連合王国オックスフォード大学分子医学研究所助手、国立小児病院小児医療研究センター先天異常研究部遺伝染色体研究室長をへて平成 4年7月東京大学大学院医学系研究科助教授(人類遺伝学)に、平成9年 6月 徳島大学医学部教授(公衆衛生学)に就任されました。同大学では附属病院・遺伝相談室長、医学部医学科長も併任されました。

研究面では、一貫して性染色体(とくにY染色体)を専門とし、Y染色体のキナクリンリピート(DYZ1)の構造決定、歯エナメル質形成アメロゲニン遺伝子の同定、同遺伝子による簡易男女性別判定、無精子症遺伝子の解析など、多くの業績をのこされました。中でもアメロゲニン遺伝子による簡易男女性別判定法は、その後オリンピックでの選手のセックスチェックにも利用されました。また近年では小児を対象とした肥満、糖尿病のフィールドワークや、縄文人や弥生人からみた日本人の特性についての研究を展開されてこられました。これら一連の業績により、平成3年日本人類遺伝学会奨励賞、平成20年徳島県知事表彰を授与されました。

また人類遺伝学会では長年にわたり庶務幹事、遺伝医学セミナー実行委員長などをおつとめになり、本学会の発展につくしてこられました。

私事で恐縮ですが、私は、中堀先生が東京大学人類遺伝学助教授のとき助手としてよんでいただいただけでなく、大学のテニス同好会の後輩でもあり、30年前真っ黒に日焼けしながらラリーを続けておられた中堀先生の姿が今でも思い出されます。いつもあの優しいお顔でお声をかけていただきました。

本当に惜しい人を亡くしました。ここに謹んで哀悼の意を表します。

 

日本人類遺伝学会理事
神戸大学大学院医学研究科 神経内科学/分子脳科学 教授
戸田 達史
(2009年 記)