学会について

慶弔関係

梶井 正先生を偲んで

本学会名誉会員・山口大学名誉教授の梶井正先生は平成28年2月1日、85歳を一期として不帰の客となられました。恩師として尊敬した先生の生涯を偲び回顧の念繁きものがあり、ここに弟子を代表して哀悼の言葉を述べさせていただきます。

梶井正先生は昭和4年7月31日、梶井貞吉、貞子様ご夫妻の三男四女の次男として東京都でお生まれになりました。梶井家は代々加賀の御典医の家系だそうです。

お父様は陸軍軍医中将軍医総監であり、叔父様の梶井剛様は日本電信電話公社(現NTT)の初代総裁でありました。先生の少年時代は東京で過ごされ、矢来小学校・杉並第八小学校、次いで開成中学校(現開成高校)に入学され2年修了時に、ご父君の勤務の関係と大戦中の学業疎開によって札幌第一中学校(現札幌南高校)へ編入し4年時修了(飛び級)時に北海道帝国大学予科医類に入学、昭和28年に北海道大学医学部を卒業されました。その後、大学院に進まれ小児科学を専攻し、臨床医としてご研鑽を積まれました。

昭和31年には, 北海道大学小児科助手、34年から一時は札幌市内の小児愛育協会付属病院の第二代院長を勤められ、36年北海道大学医学部付属病院講師、41年から1年半、訪問研究員としてニューヨーク州立大学シラキュース校に留学し、先天異常学・細胞遺伝学を学ばれました。帰国後母校の講師として教育・研究に当たられました(私が弟子入りしたのはこの頃です)。

昭和44年に北大を辞し、7年間スイスジュネーブ大学産婦人科病院の胎生学・細胞遺伝学研究室教授(WHO地域センター主任)、次いで再びニューヨーク州立大学小児科准教授を歴任した後、昭和53年から山口大学医学部小児科学講座教授となられ、多くの後進の指導に当たられ平成5年に定年退官されました。退官後はSRL社の顧問として我が国の染色体異常と希少性遺伝病の合併例を多数発掘され、ご自身自体の研究そして国内外の共同研究を通して原因遺伝子の発見に多大な寄与をされたのは周知の通りです。
梶井先生の研究業績は膨大です。大別しますと、サリドマイド胎芽症の発生調査と原因究明、自然流産胎児の染色体異常調査、経口避妊薬の染色体異常への影響調査、胞状奇胎の発症機構の解明、ヒト3倍体の発症機構、絨毛上皮腫の研究のほか、Neu-Laxova症候群やPremature chromatid separation (PCS)症候群の確立と原因解明など枚挙にいとまがありません。これらの業績により「高松宮記念がん研究費」や「昭和60年度日本人類遺伝学会賞」を受賞されました。

社会活動でも多大な功績を残され、46年サリドマイド裁判における原告(患者)側証言、47年経口避妊薬の胎児に及ぼす影響に関する国際ワークショップの主催(於ジュネーブ)、48年世界宗教会議シンポジスト(於チューリッヒ)、62年ヒューマンフロンティアサイエンスプログラム委員会委員、本学会に関係したものでは、第36回日本人類遺伝学会大会長(於宇部市)、臨床遺伝学認定医制度(現専門医制度)の創設(初代の制度委員会委員長)、遺伝医学セミナーの立案・開設、奇形懇話会(現Dysmorphologyの夕べ)の開設などです。「染色体異常をみつけたら(臨床細胞遺伝学認定士制度のHPに掲載http://cytogen.jp/index/index.html)」はアクセス数20万件を超す、専門家中ではベストセラー(販売はしていませんが)です。
梶井先生は多くの弟子や遺伝医学・小児科の専門家を育てました。愛育病院時代の奥田欽一(小児科医)、北大時代の新川詔夫(長崎大学名誉教授)、ジュネーブ大学時代の大濱紘三(広島大学名誉教授)と高原宏(産婦人科医)、山口大学時代の小林邦彦(北大名誉教授)、塚原正人(元山口大学教授、ご逝去)、今泉清(元神奈川こども医療センター、ご逝去)、荻原啓二(小児科医)、大橋博文(埼玉こども病院)、松浦伸也(広島大学教授)の諸先生ほか多数の山口大同門会の方々などです。それぞれ梶井先生の遺志を継いで各方面で活躍しています。
このように梶井正先生のご生涯は細胞遺伝学・遺伝医学の発展とその普及に捧げられました。日本人類遺伝学会会員、臨床遺伝専門医、弟子たち、そして多くの知人に大きな影響を与えてくれた梶井正先生の懿徳に感謝して、衷心よりご冥福をお祈りいたします。合掌

追記

梶井先生の種々のエピソードを追悼文中で披露するのは憚り割愛したのですが、先生のお人柄を偲ぶにはそれなくては語れませんので、ここに追記したいと思います。先生もお許しになると思っています。
梶井先生は口語日本語がとっても下手なことは誰もが認めるところですが、一旦文体における表現では同一人物かと思うように達人となります。とりわけ英文論文の構成の仕方・簡潔さ・的確さは米国人も脱帽です。しかし先生の中学校時代は英語は敵性言語でしたからその後の語学習得に苦労されたそうです。北大時代は敗戦直後で進駐軍が走り回っていましたので、GI達との接触で英語を訓練したと言っておられました。研究室でもときどきブツブツ言ってクマのように歩き回ります。隣の部屋にも聞こえてきます。耳を澄ますと英語のphraseを反復練習しているのでした。人知れず自己鍛錬している姿をかいま見ました。但しドイツ語は不得手のように思われました。ドイツ語圏のホテルに泊まったとフロントでは一泊funfundsiebzigと言いましたが、先生は「57マルクは安い!」と感心した様子でしたが、75の誤りです。私は直していただいた英文論文の表現法を反復し憶えて身につけようと努力しました。未だ師の域には達しませんが梶井イズムの一端は継承し、先生から習ったことを要約した「英文論文の書き方」のプリントを作成し後進の院生たちに伝えてきました。例えば論文では関係代名詞を使うくらいなら2文にせよ!とか、副詞節や副詞句はできるだけ避けよ!とか、on the other handは日本語の「一方・・」、ではなくて、前の文章の意味をひっくり返すときにのみ用いるとか、「Figures/Tables→Meterials&Methods→Results→Discussion→Introduction→Summary→Authorship→Acknowledgements の順で書くこと」、
「タイトルは読者を引きつけるものにする。最初に最も重要なキーワードを使う。A Study of …やA case of …はダメ」など多くの参考になるものがありました。
先生は世事が苦手でした。世間話のときは、先生はただ黙っています。嫌なんだと思います。相づちも打ちません。梶井家での食事会の後雑談でご家族や客は小一時間ばかり盛り上がっていましたが、気がつくと先生がいません。客の帰宅時間になるとて別れの挨拶のためどこともなく現れます。あとでわかったのですが、世間話を聞いているのが苦痛で、奥の寝室で寝転びながら論文を読んでいたのです。嫌いなことへの梶井式回避術の一つはこんな風でした。世間話でもご本人が興味のあるときは、やはり黙ってですが首振り動作が始まります。この動作は逃避せずストレスを回避する身体反応のようです。学術的話題のときは決して首は振りませんし、集中しています。先生のおっしゃることをこちらが聞き漏らして聞き直すと大変なことになります。しばらく沈黙し、そして深いため息となります。説明は繰り返すのではなく、その話題の完全初歩から始まります。例えば細胞遺伝学の話題ならば「ヒト2倍体は46本の染色体があります」から始めます。理解できないのは根本からわかっていないのだと思われているのです。これは辛い!!先生のお弟子さんたちは「そんこともあったなあ」と頷いていることでしょう。研究時間の合間に雑談したときや、論文指導の折の過去の業績の記憶力は驚嘆すべきものでした。「何とか言う雑誌の何号の何ページあたりにそのことが書いてある」といったもので、調べるとその通りでした。論文の図表は細部にこだわります。ハサミによる染色体写真の切り離しには染色体の端から1ミリです。それも写真の水平面から染色体内側へ斜めに切り込まなくてはなりません。Q分染写真は絶対そうしなくてはなりません。その上で黒マジックで切り離した写真の裏から端を塗りつぶします。黒い台紙に張ったときにエッジがみえないようにするためです。私はこの作業の熟達者です。なぜなら弟子入りした一ヶ月間こればかりしていましたから。
先生は早朝型です。朝2時か3時には起きて風呂につかりながら論文読んでいるようです。学会のためバーゼル郊外の小さなホテルに先生と同部屋で泊まった経験でも真夜中にお風呂で読書をしていました。私は一睡もできませんでした。札幌市の拙宅にお泊めしたときも2時頃に起床されて入浴しリビングのヒーターを入れた形跡があったのですが、我が家では節約のため就寝前にセントラルヒーティングの大元スイッチを切っていましたので、先生は真冬の北海道で冷水シャワーをかぶりその後も部屋で寒かっただろうと、この場であの世に向かって陳謝する次第です。先生はお酒をたしなみますが、赤ワインが大好物です。ポルトガル産の安価なワインを好まれていました。酔うと前額中央部がV字状に発赤します。これは潜在性の血管腫で(明瞭なものはsalmon patchと呼ばれるものです)遺伝性ではないと思います。先生の運動神経は人並みでしょう。水泳は古式泳法ですが見事でした。但し運転技法だけはいただけません。これはスバル360に乗っていた若いときからも、空冷式フォルクスワーゲンでもそうです。強いて言えば、パーキンソン病的ドライブ手技です。カーブはガキガキと回りますし、停車は急です。車の中で相手をののしりながらです。
先生は米国から帰国されるとき、勤務候補地として複数の学術機関がありましたが、山口大学医学部を選び、定年まで医学部のある宇部市にお住まいでした。この選択はどうも偶然ではなく、先生の心の中に山口宇部に対する親和性が存在したのではなかったのかと思います。ご母堂が山口県宇部市出身の男爵家のお嬢さんで山口高等女学校のご出身だったからです。どこかにゆかりの地だという意識があられたものと考えます。一方、先生のご子息さまお二人は北大を出られてNTTに勤務されました。これも先生の叔父(梶井剛)様が日本電信電話公社(現NTT)の初代総裁であったことが就職理由のどこかにあったのではないでしょうか。不思議な「えにしの糸」です。ちなみに、梶井家の男性はすべて一文字の名前です。例外は父上ですが、三人の叔父(剛、滋、篤)、兄(直)、ご本人(正)、弟(明)、長男(健)、次男(浩)です。祖父の時代からあるいは先祖からの伝統だと思われます。
先生は大変人ですが、曲がったことができない正直を絵に描いたような人でした。先生はヨーロッパではサムライ・プロフェッサーと呼ばれていました。白人から見ても一本筋の通った古武士のような科学者と思われていました。厳しい人でしたが人前で怒ることはありませんでした。でもときにおっしゃるお小言の一言一言はずっしりと重く心に響きました。弟子たちはみな先生を慈父のように尊敬しています。いま先生に旅立たれて茫然自失です。生前の先生のお姿を偲びつつ謹んでご冥福をお祈りいたします。

北海道医療大学 学長
新川 詔夫
(2016年 記)

 

金澤 一郎先生を偲んで

2016年1月20日、日本人類遺伝学会名誉会員としてご活躍された金澤一郎東京大学名誉教授、国立精神医療研究センター名誉総長が、享年74歳でご逝去されました。金澤先生のこれまでの多大な学問的ご功績と日本人類遺伝学会への御尽力御貢献に対して心より深謝申し上げるとともに、先生の御冥福をお祈りします。
金澤先生は東京都のご出身であり、日比谷高等学校を経て、昭和42年東京大学医学部医学科を卒業後、東京大学神経内科に入局、東京大学神経内科助手、英国ケンブリッジ大学薬理学研究員、筑波大学神経内科講師、助教授、教授をへて、平成3年東京大学神経内科教授になられました。東大病院長なども兼任されました。平成14年同大学を退官後、国立精神・神経センター神経研究所所長、同センター総長、国際医療福祉大学大学院長などになられました。
平成14年から10年間、宮内庁長官官房 皇室医務主管を務められ、皇后陛下の発声障害や天皇陛下の前立腺がん摘出手術、心臓バイパス手術の2度の手術にも関わられ、皇太子妃雅子さまの体調や秋篠宮妃紀子さまの出産にも対応されました。日本学術会議の会長も務められ、北海道洞爺湖で開催されたG8サミットで関係5か国のアカデミー座長を務められました。
また日本神経学会理事長、日本内科学会理事長等を歴任され、日本人類遺伝学会第49回大会(2004年)の大会長を務められ、第13回国際人類遺伝学会(ICHG2016)の名誉大会長でもありました。その間、瑞宝重光章などを叙勲されています。
研究面では、大脳基底核・小脳疾患の臨床、神経疾患の遺伝子解析、中枢神経系の神経活性物質の探索などの脳科学分野を専門とし、特に神経伝達物質サブスタンスPの解析とハンチントン病における低下、日本におけるハンチントン病の遺伝子解析の中心的な役割をはたしました。

金澤先生は、あれだけの立場におられながら、とても気さくでフェアな先生でありました。いつも我々の話に耳を傾けていただきました。
先生は1991年私が東大神経内科の卒後7年目のかけだしの医局員の時にこられ、そのときからご指導いただきました。私など、先生が東大に来られたばかりの時、福山型筋ジスのホモ接合性マッピングによる遺伝子同定のプロジェクトのお話を聞いていただきたく、アポなしで夕方の医局会の後、教授室に突撃しました。大変お忙しそうにしておられ「後じゃいかんか」「うーん、わかったよ、君が今すぐ聞いて欲しそうな顔をしてる」とおっしゃり、私の話を聞いてくださいました。また癌研生化学部へ国内留学するときに、中村祐輔先生にご挨拶にご一緒に行っていただいたことも、とても印象に残っています。礼をつくす、とはどういうことか、を示してくださいました。爾来部下の異動のときにはなるべく自分もそうするよう心がけています。
失敗談としては、金澤先生が赴任されたとき東大神経内科生化学研究室の歓迎会を、私が幹事になって赤坂の英国調の有名なインド料理店で開きました。タンドールチキンなど、ほとんどの料理を召し上がりになりません。金澤先生は、あんこがお好きでチキンが苦手、ということをその時以来知りました。

先生ほど、患者のため、医学のため、双方のバランスが取れていたかたをなかなか存じません。まさに巨星墜つ、というのが実感です。大変フェアで、偉大な臨床医、神経学者が、また日本からいなくなってしまいました。まだまだ我々後進を指導していただきたいことがいっぱいありましたのに残念です。

金澤先生、先生は今、全ての重荷を下され天国で憩っておられると思います。残されたご家族やお弟子さん方の平安を心よりお祈りしています。御冥福を御祈り致します。合掌

神戸大学大学院医学研究科 神経内科学/分子脳科学 教授
戸田 達史
(2016年 記)

 

中堀先生を偲んで

日本人類遺伝学会評議員中堀 豊先生は、4月27日(月)、逝去されました。享年53歳でした。

先生は、昭和55年3月東京大学医学部医学科を卒業され、同大学医学部附属病院小児科に入局されました。その後、元人類遺伝学会理事長、中込弥男先生のもとに学ばれ、国立遺伝学研究所助手、連合王国オックスフォード大学分子医学研究所助手、国立小児病院小児医療研究センター先天異常研究部遺伝染色体研究室長をへて平成 4年7月東京大学大学院医学系研究科助教授(人類遺伝学)に、平成9年 6月 徳島大学医学部教授(公衆衛生学)に就任されました。同大学では附属病院・遺伝相談室長、医学部医学科長も併任されました。

研究面では、一貫して性染色体(とくにY染色体)を専門とし、Y染色体のキナクリンリピート(DYZ1)の構造決定、歯エナメル質形成アメロゲニン遺伝子の同定、同遺伝子による簡易男女性別判定、無精子症遺伝子の解析など、多くの業績をのこされました。中でもアメロゲニン遺伝子による簡易男女性別判定法は、その後オリンピックでの選手のセックスチェックにも利用されました。また近年では小児を対象とした肥満、糖尿病のフィールドワークや、縄文人や弥生人からみた日本人の特性についての研究を展開されてこられました。これら一連の業績により、平成3年日本人類遺伝学会奨励賞、平成20年徳島県知事表彰を授与されました。

また人類遺伝学会では長年にわたり庶務幹事、遺伝医学セミナー実行委員長などをおつとめになり、本学会の発展につくしてこられました。

私事で恐縮ですが、私は、中堀先生が東京大学人類遺伝学助教授のとき助手としてよんでいただいただけでなく、大学のテニス同好会の後輩でもあり、30年前真っ黒に日焼けしながらラリーを続けておられた中堀先生の姿が今でも思い出されます。いつもあの優しいお顔でお声をかけていただきました。

本当に惜しい人を亡くしました。ここに謹んで哀悼の意を表します。

 

日本人類遺伝学会理事
神戸大学大学院医学研究科 神経内科学/分子脳科学 教授
戸田 達史
(2009年 記)